薬師山砲台

Battery Yakushiyama


↑ 函館港内及び函館地峡を射撃し、御殿山第一砲台を掩護するために築かれた薬師山砲台。

 函館山展望台のすぐ下、登山道路(立待岬函館停車場線)のヘアピンカーブから北東約50mの位置に薬師山砲台がある。到達方法は以下の3通りである。
① 山頂側から: つつじ山駐車場(御殿山第二砲台前)で下車。「旧登山道コース(軍道)」を下り、「薬師山コース」へ分岐する。
② 麓側から: 函館山ふれあいセンター駐車場で下車。「旧登山道コース(軍道)」を登り、「薬師山コース」へ分岐する。
③ 七合目から(要送迎): 登山道路「七合目」看板前(停車スペースあり)で下車し、薬師山砲台への下り道を徒歩約2分。
※登山道路は全区間「駐車禁止」のため注意が必要である。


■薬師山砲台の歴史
【日露戦争前】
 1895(明治28)年4月23日の三国干渉を機に、日本ではロシアの南下政策に対する警戒感が一気に高まった。ロシアによる日本侵攻が現実味を帯びる中、同年8月には「函館防御計画ノ要領」*が裁可され、函館港を防衛するための「函館要塞」新設が決定した。

*「函館防御計画ノ要領」の要約・・・函館は北海道の重要港湾であり、敵に奪われればその被害は極めて甚大である。北海道の命脈は本州との海上交通にかかっており、仮に内陸部(上川付近)に兵糧や弾薬を蓄えて持久戦を試みたとしても、本州からの補給路が絶たれれば全道の陥落は避けられない。ゆえに、本州に最も近い函館港の防衛が絶対に必要である。函館港は地形上、防御には難があるものの、函館山に大規模な砲台群を築き、旧弁天台場または新設の防波堤先端にカノン砲台を配置することで、敵艦の停泊阻止と本州との海上交通維持を図る。


 出典:陸軍築城部本部 編 『現代本邦築城史』 第二部 第八巻,1943.
    国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223517/1/64

 なお、この時点での防御計画は、1897(明治30)年4月に追加指定された「C’御殿山東方閉鎖堡」「和布岬電灯」「立待岬電灯」を除けば、概ね下図に示される内容と一致する。

↑ 1897(明治30)年4月修正追加 「函館防御計画ノ要領」添付「函館港防御計画図」
 出典:陸軍築城部本部 編 『現代本邦築城史』 第二部 第八巻,1943.
    国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223517/1/70


 上図から、のちに薬師山砲台が築かれる場所には、当初、28cm榴弾砲4門、15cm臼砲4門、9cmカノン4門、機関砲3門を備えた巨大な「C薬師山閉鎖堡」が計画されていたことが窺える。しかし、翌1898(明治31)年3月の計画見直しにより、下図の通り火器の配置や施設名に大きな変更が加えられた。
●薬師山・御殿山:28cm榴弾砲4門を函館山山頂へ移して「C 御殿山堡塁(御殿山第一砲台)」を新設。薬師山には15cm臼砲4門と機関砲3門を残し「C” 薬師山堡塁(薬師山砲台)」と改称。
●観音山:「B 御殿山西北框舎」(機関砲4門予定)の計画を中止。
●立待岬周辺:「F 谷地頭南方閉鎖堡」を南東に移し、「F 立待岬西北堡塁(立待堡塁)」に変更。
●探照灯施設:「和布岬電灯」の配置を南方に移し、「穴澗電灯」に変更。

↑ 1898(明治31)年3月 「函館要塞防御計画書」添付「函館要塞防御計画図」
 出典:陸軍築城部本部 編 『現代本邦築城史』 第二部 第八巻,1943.
    国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223517/1/79


 当初、薬師山に計画されていた大規模な堡塁砲台を「御殿山第一砲台」と「薬師山砲台」へ分離・再編した経緯は、 1898(明治31)年4月29日に工兵会議議長・古川宣誉より陸軍大臣・桂太郎に提出された建議書(「函館港防御薬師山砲台(C点)ノ榴弾砲砲台位置変更ニ関スル建議書」)*に詳しい。

*「函館港防御薬師山砲台(C点)ノ榴弾砲砲台位置変更ニ関スル建議書」の要約・・・薬師山に巨大な堡塁砲台を築いた場合、左半面に大規模な切土斜面が生じるため、砲撃を受けると土砂が崩落し砲台主要部が埋没する危険性がある。また、南西方向が御殿山に遮られ、約140度に及ぶ死角が生じるため、有効な射撃が行えない。これらの構造的欠点は設計上の工夫のみで補えるものではない。これに対し、御殿山は展望に優れ、薬師山の死角となる南西方向へも有効な射撃が可能である。ただし、山頂の敷地が狭小であるため、主砲である28cm榴弾砲4門のみを移設し、残りの兵備(15cm臼砲4門・機関砲等)を薬師山に残して「附属砲台」とする構成が得策である。なお、御殿山山頂には当初、堡塁団長用の総司令所を設置する計画であったが、観測所を2箇所設置し、そのうちの1箇所を堡塁団長用に充てれば特段の支障はない。設計要領は以下の通りである。
◇榴弾砲砲台(=御殿山第一砲台): 直接照準式とし、28cm榴弾砲の火線(砲口高)標高は339mとする。両翼に観測所2箇所、2つの砲座の中間にある塁壁下に大小3個の補給庫を配する。また、将校室1個、司令所附属室2個、掩蔽部(125㎡)を設置し、掩蔽部に接して幅2mのトンネルを設けるほか、監守衛舎、貯水所、柵門、厠などを整備する。
◇附属砲台(=薬師山砲台): 15cm臼砲2門用砲座2箇所を標高247.5mに配置し、歩兵塹溝(塹壕)を設ける。砲座後方には弾薬補給庫2個と掩蔽部1個を設置し、その他、砲具庫、貯水所、柵門、厠などを整備する。


 出典:「築城部より 薬師山砲台建築の件」JACAR(アジア歴史資料センター)Ref.C03023112900

 上記のような変更を経て、薬師山砲台の築城工事は1898(明治31)年6月25日に開始され、1899(明治32)年10月30日に竣工となった。1900(明治33)年4月には15cm臼砲4門の据付を完了し、1901(明治34)年には敷地内に監守衛舎が建てられた。薬師山砲台の建築費(実費)は38,654円44銭7厘(現在の価値で約8億円)、火砲据付費*(実費)は9,773円57銭5厘(同・約2億円)にのぼる。

*火砲据付費・・・火砲価格・据付工賃・検査費など、火砲の据付にかかる諸費用の合計。
参考)火砲1門の価格
●15cm臼砲・・・1,959円12銭0厘(現在の価値で約4千万円)
 ⇒薬師山砲台と千畳敷砲台に4門ずつ据付。
●28cm榴弾砲・・・16,978円86銭0厘(同・約3億4千万円)
 ⇒御殿山第一砲台に4門、御殿山第二砲台と千畳敷砲台に6門ずつ据付。
●9cmカノン・・・3,466円40銭0厘(同・約7千万円)
 ⇒立待堡塁に4門据付。


 出典:陸軍築城部本部 編 『現代本邦築城史』 第一部 第三巻,1943.
    国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223508/1/52

【日露戦争中】
 1904(明治37)年7月、ウラジオストク艦隊の津軽海峡遊弋(通商破壊)により青函航路が一時途絶する事態となったが、函館要塞の存在が抑止力となり、函館港への直接侵攻は免れた(ウラジオストク艦隊は同年8月14日の蔚山沖海戦で壊滅)。この航路遮断を重く見た参謀総長・山県有朋は、陸軍大臣・寺内正毅と協議。バルチック艦隊の来航に備えて海峡通過を妨害すべく、津軽海峡の東西両口に砲台を新設し、計18門の15cm速射カノンを配置する「津軽海峡防御設備要領」及び「津軽海峡防御砲台構築要領」を決定した。しかし、まさに着工当日となった1905(明治38)年5月27日、日本海海戦でバルチック艦隊が壊滅したため、この工事は中止となった。
【日露戦争後】
 1909(明治42)年12月に参謀本部によって「要塞整理方針案」が策定され、津軽海峡ならびに日本海の制海権維持のため、敵艦の海峡通航を妨害する「津軽要塞」を新設し、その内部にある函館要塞は廃止する方向性が示された。1913(大正2)年3月には廃止対象として薬師山砲台の名が挙がり、1916(大正5)年10月に正式に廃止が決定した。


↑ 函館山の山頂(御殿山第一砲台跡)から見た薬師山砲台
 当時の火砲配置を示した合成イメージである(注・火砲は現存しない)。また、3連掩蔽部の位置を明示するため画像を加工し、砲台背面の壁面を透過処理している。なお、実際の函館山山頂からは、視角および地形の関係上、薬師山砲台の掩蔽部を直接視認することは困難である。

↑ 函館夜景と薬師山砲台
 函館山展望台には連日、夜景を楽しむ大勢の観光客が訪れている。しかし、眼下(写真左下)に位置する歴史的な要塞遺構(薬師山砲台)の存在は、今なお広く知られてはいない。


↑明治10年代に撮影されたパノラマ写真  (マウスオーバーでGoogle Earthの画像を表示)
 出典:北海道大学北方資料データベース 「薬師山ヨリ函館市街ヲ望ム」
 写真には「薬師山」の名の由来である薬師堂が写っている。仏教施設に鳥居が立つ構造は、幕末まで神仏習合により「医王山大明神」と「薬師如来」が同一の存在として祀られていた名残である。明治の神仏分離(廃仏毀釈)により薬師如来の石像は一時土中に埋められ、撮影から約20年後の薬師山砲台建設に伴い薬師堂も撤去。「医王山大明神」は山上大神宮(船見町)へ合祀された。埋められていた石像は後に掘り出され、要塞司令部での安置を経て、現在は天祐寺(青柳町)に祀られている。

↑ 函館山薬師堂の古写真  (AIによりカラー化)
 背後に見られる大きな岩場や参拝者の姿から、写っている建物は薬師堂(薬師神社)の「本殿」ではなく「拝殿」と推測される。
 出典:函館市中央図書館デジタル資料館 https://archives.c.fun.ac.jp/photos/gl000557/0001