↑ 函館山山頂の地下に残る砲台施設
日本を代表する観光名所である函館山の山頂に御殿山第一砲台が残る。山頂展望台の隣に残っているものの、この砲台は普段立入禁止となっており、いまだに観光資源として有効活用されていない。一般の方が安全に見学するためには、毎年数回、見学会が開催されているようなので、そのような催しに申し込まれることをおすすめする。
2001年に「函館山と砲台跡」が北海道遺産に選定されてからかなりの月日が経ったが、要塞施設の保存・活用に向けた具体的な動きが見えてこないのは大変残念である。まずは、現存する砲台施設の補修、がれきの撤去、歴史的資料の展示、照明・暖房施設の設置を行い、一般公開していただけたらと願う。
■御殿山第一砲台の歴史
【日露戦争前】
1895(明治28)年9月、ロシアによる侵攻から函館港を守るため、函館要塞の新設が決定した。1897(明治30)年11月には函館要塞砲兵大隊が編成された。御殿山第一砲台の築城工事は1898(明治31)年6月に開始され、1900(明治33)年10月に竣工となった。1901(明治34)年11月には28cm榴弾砲4門の据付工事を完了した。
【日露戦争中】
1904(明治37)年7月、ロシアのウラジオストク艦隊が津軽海峡を通過したため、一時青函航路が麻痺し北海道が孤立する事態が発生した。しかし、函館要塞があったおかげで、函館港はウラジオストク艦隊による攻撃を免れた。※ウラジオストク艦隊はその後8月14日の蔚山沖海戦で壊滅。
【日露戦争後】
1909(明治42)年12月に参謀本部によって要塞整理方針案が策定され、津軽海峡並びに日本海の制海権を守るために、津軽海峡を防備する津軽要塞を新設し、その内部にある函館要塞を廃止する方向性が示された。1913(大正2)年3月には、廃止すべき堡塁砲台の一覧に御殿山第一砲台の名前が載っている。その後、1914(大正3)年12月頃には、備砲の28cm榴弾砲4門が撤去された。1916(大正5)年10月、ついに御殿山第一砲台の廃止が正式に決定した。
【第二次世界大戦後】
1950(昭和25)年、函館山山頂(御殿山第一砲台)までの自動車用登山道が着工され、1953(昭和28)年に完成。御殿山第一砲台の第一砲座~右翼観測所の上部に、初代展望台(展望ハウス)が完成した。1957(昭和32)年3月22日、御殿山第一砲台の第二砲座~揚弾井の真上に建てられたNHK送信所の運用開始。1958(昭和33)年11月、初代ロープウェイ(31人乗り)が営業開始。山頂駅の建築によって、御殿山第一砲台の出入口付近の擁壁が一部失われた。1958(昭和33)年12月15日、御殿山第一砲台の第二砲座~左翼観測所の真上に建てられたHBC送信所の運用開始。1988(昭和63)年、新ロープウェイ(125人乗り)と新展望台が竣工。ロープウェイ機械室の設置によって、御殿山第一砲台の右翼観測所への階段が封鎖された。2001(平成13)年10月、「函館山と砲台跡」が北海道遺産に選定された。
↑ 御殿山第二砲台と御殿山第一砲台の位置関係
どちらも28cm榴弾砲の砲台で、第二砲台に6門、第一砲台に4門が据え付けられた。函館山山頂の第一砲台は、全方位に砲撃できるよう、楕円に近い角丸長方形の砲座となっていたのが特徴的である。
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↑ 御殿山第一砲台の配置図
↑ 現在の函館山山頂と砲台施設の位置関係
一般観光客用の山頂駐車場の地下に、暗路や掩蔽部が現存している。しかし、観測所や砲座、揚弾井、弾薬補給庫などの重要な施設が、テレビ局の送信所施設の下敷きにされるなどして埋められた状態となっている。将来、送信所が老朽化した際に北側へずらして建て替えるなどして、砲台施設の発掘と修復がなされることを願う。
↑ 初代の函館山展望台
人づてにいただいた写真なので詳細は不明だが、初代の展望台(展望ハウス)が完成した1953年か、その翌年あたりの撮影らしいとのこと。第一砲座の真上に展望ハウスが建てられ、2階部分からバルコニーが右翼観測所の真上まで伸びていたことが分かる。
↑ 1954年7月に撮影された第二砲座と左翼観測所
この写真は函館の郷土史家である中村正勝さんが入手したもの。楕円に近い角丸長方形の砲座がよくわかる貴重な写真である。前年に完成したばかりの展望ハウスから撮影しものと思われる。
この第二砲座の真上には現在、TVh・HBC送信所とNHK送信所が建っているのだが、NHK送信所の階段下に砲座の一部を確認することができる。
※函館山山頂(御殿山第一砲台跡)の古写真をお持ちの方は、情報提供をお願いいたします。
↑ 現在の函館山山頂展望台からの眺望
左下に薬師山砲台が見えているが、観光客の大半は、薬師山砲台の存在に気が付かない。
↑ 砲台の出入口とロープウェイ山頂駅
赤色矢印が本来の砲台入口。右側の擁壁はよく残っているが、左側の擁壁は、初代のロープウェイ山頂駅を建てる際に大きく削られてしまった。(手前の広い空間は、初代のロープウェイ山頂駅跡)