立待堡塁

Battery Tachimachi


↑ 函館地峡を縦射し、函館山の東北面を側防するために築かれた立待堡塁

 立待堡塁を見学するには、立待岬駐車場に駐車し、一方通行となっている市道を西方に約500m歩いて、登山道七曲りコース入口に向かうのが最も効率的である。※この市道は、幅員が狭いうえに、観光バスが多く通行するので、路上駐車をしないようにお願いしたい。

 

■立待堡塁の歴史
【日露戦争前】
 1895(明治28)年9月、ロシアによる侵攻から函館港を守るため、函館要塞の新設が決定した。1897(明治30)年11月には函館要塞砲兵大隊が編成された。立待堡塁の築城工事は1901(明治34)年9月に開始され、1902(明治35)年10月に竣工となった。同年12月には9cmカノン4門の据付を完了した。
【日露戦争中】
 1904(明治37)年7月、ロシアのウラジオストク艦隊が津軽海峡を通過したため、一時青函航路が麻痺し北海道が孤立する事態が発生した。しかし、函館要塞があったおかげで、函館港はウラジオストク艦隊による攻撃を免れた。※ウラジオストク艦隊はその後8月14日の蔚山沖海戦で壊滅。
【日露戦争後】
 1909(明治42)年12月に参謀本部によって要塞整理方針案が策定され、津軽海峡並びに日本海の制海権を守るために、津軽海峡を防備する津軽要塞を新設し、その内部にある函館要塞を廃止する方向性が示された。
1934(昭和9)年10月に立待堡塁の大部分が除籍となり、1936(昭和11)年7月に立待堡塁の全部が除籍となった。
【第二次世界大戦後】
 立待岬と登山道七曲りコース入口を接続する道路が建設されたため、立待岬駐車場から立待堡塁へ向かうことが可能となった。
 2001(平成13)年10月、「函館山と砲台跡」が北海道遺産に選定された。


↑ 立待堡塁と立待低地観測所、立待照明所、立待演習砲台の位置関係
▶地図・空中写真閲覧サービス

 


↑ 現在の立待岬と要塞施設の位置関係

 


↑ 「函館山要塞配置図」より立待岬周辺を抜粋
 津軽要塞司令部に勤務した人物によって描かれたものと推測されている。


↑ 立待堡塁の出入口を守る掩蔽部
 立待岬から一方通行の市道を進むと、「七曲り入口」のある右カーブを曲がってすぐの場所に、かまぼこ型の掩蔽部が残存している。函館市によって出入口やその反対側の開口部が板で塞がれていることや、「函館山要塞配置図」において施設名が書かれていないことから、この掩蔽部の用途の特定は難しかった。
 明治期には、框舎(きょうしゃ)とよばれるトーチカが築城されていることや、1898(明治31)年3月の「函館要塞防禦計画書」の兵備表より、立待堡塁には9cmカノン4門のほかに、機関砲(*)4門を配備する計画であったこと、掩蔽部の出入口の反対側に、立待堡塁に接続する軍道に向けて開口部(銃眼)が設けられていることから、機関銃座と推定した。
*保式機関砲・・・口径6.5mm、有効射程2000mの機関銃。1907(明治40)年以前は、「機関砲」とよばれていた。

 


↑ 掩蔽部の出入口
 塞いだ板の隙間から撮影。

 


↑ 保式機関砲(ほしききかんほう)
 この型の機関銃を掩蔽部に配備する計画であったと推定。
 大本営写真班 撮影『日露戦役写真帖』第7巻,小川一真出版部,1904-1906.
 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/774301/1/16

 


↑ 板で塞がれた開口部(銃眼)

 


↑ 軍道から見た掩蔽部の開口部(銃眼)
 この道は一方通行のため、徒歩でないとこの向きには進めない。左奥に続く道は、戦後のもの。要塞時代には、この掩蔽部の横を通り過ぎ、「七曲り入口」から立待堡塁の中心部に入ったものと考えられる。


↑ 登山道「七曲り入口」
 ここから少し登って、分岐を左に進むと立待堡塁の中心部に到達する。