勇払平野の防御陣地

Defensive Position in Yufutsu Plain


現存する火砲用トーチカ埋没・海没・消滅した火砲用トーチカ埋没・海没・消滅した観測用トーチカを示す。
対戦車用火砲(矢印の長さは、M4中戦車の装甲を破ることのできる有効射程)
対人用火砲(矢印の長さは、殺傷能力のある有効射程)対戦車壕ш塹壕を示す。
※トーチカ名は便宜上のもの。複数ある場合には弧を描くように順に番号を振った。

むかわ町 Mukawa

 

  • 汐見高台トーチカ
  • 汐見高台トーチカ
  • Shiomi-Hill Pillbox
  • 九二式歩兵砲

 

  • 汐見海岸トーチカ1
  • 汐見海岸トーチカ1
  • Shiomi-Seashore Pillbox 1
  • 九二式重機関銃

 

  • 鵡川河口トーチカ1
  • Mukawa-Estuary Pillbox 1
  • 一式機動47mm砲

 

  • チンタ浜踏切トーチカ
  • Chintahama-Crossing Pillbox
  • 九二式重機関銃

 

  • 二宮トーチカ
  • Ninomiya Pillbox
  • 四一式山砲

厚真町 Atsuma

 

  • 鹿沼トーチカ1
  • Shikanuma Pillbox 1
  • 四一式山砲

 

  • 鹿沼トーチカ2
  • Shikanuma Pillbox 2
  • 九二式歩兵砲

 

  • 厚和トーチカ1
  • Kowa Pillbox 1
  • 四一式山砲

 

  • 厚和トーチカ3
  • Kowa Pillbox 3
  • 九四式山砲

苫小牧東部地域 Tomatoh Area

 

  • 共和トーチカ
  • Kyowa Pillbox
  • 九四式山砲

 

  • 静川トーチカ
  • Shizukawa Pillbox
  • 一式機動47mm砲

 

  • 静川綱木トーチカ
  • Shizukawa-Tsunaki Pillbox
  • 一式機動47mm砲

 

  • 柏原トーチカ2
  • Kashiwabara Pillbox 2
  • 四一式山砲

苫小牧市 Tomakomai

 

  • 植苗トーチカ
  • Uenae Pillbox
  • 四一式山砲

 

  • 緑ヶ丘公園トーチカ
  • Midorigaoka-Park Pillbox
  • 九二式重機関銃

勇払平野の防御陣地の歴史 History

1944(昭和19)年5月15日、第5方面軍は、道東(網走・根室・釧路・十勝支庁管内)を第7師団の作戦地域とし、道西は第77師団の作戦地域とした。


1944(昭和19)年6~7月頃、この頃の敵情判断として、アリューシャンの米軍が、北千島を攻略せずに、直接南千島や北海道本島に侵攻する危険性があるとして、大別して次の2パターンを想定した。
〔1〕 道東または南千島方面に上陸・侵攻してくるパターン
 帝都(東京)爆撃の基地設定として、道東では計根別飛行場群が目標とされ、根室または釧路に主上陸を、網走及び十勝地区に一部を上陸させると予測。考えられる上陸正面には、「根室及び標津海岸」、「釧路及び大楽毛海岸」、「十勝海岸」、「網走海岸」の四つがあった。第7師団は、防備の重点を太平洋側におき、根室または釧路に上陸して計根別へ向かうものを第一に、次いで十勝海岸から帯広に向かうものを重視して、防御陣地の築城を進めていった。
〔2〕 勇払海岸に上陸・侵攻してくるパターン
 北海道の死命を制する目的をもって、札幌を目標とすると予測。(但し、一旦道東を占領したのち、状況により来攻する公算の方が多いと判断)


1944(昭和19)年7月18日、第5方面軍司令官が兵団長会同を開き、第7師団長・第77師団長・留守第7師団長・第1飛行師団長・樺太兵団長に対し、北海道本島の防備強化の構想を示達し、沿岸築城の実施を命じた。こうして、第7師団は道東地区の、第77師団は勇払平野の沿岸築城を任せられた。


1944(昭和19)年8月9日、第77師団が勇払平野の築城計画を完成させた。来攻する米軍を水際で撃滅する方針のもと、3個連隊を並列して第一線とし、汀線に主陣地をとるよう計画したものであった。この計画に基づいてトーチカや対戦車壕などの構築が実施された。


1944(昭和19)年8月19日、大本営が『島嶼守備要領』(大陸指第2130号別冊)を示し、水際より後退した位置に主陣地を築くことを可とした。
※主陣地を海岸から適宜後退した地域に選定し、米軍の猛烈な砲爆撃に耐えて長期持久できるよう堅固に編成して、その上陸に際しては海上、水際、海岸等でできる限り多くの損害を与えるとともに、反撃部隊を縦深に配置して弾力性のある防御戦闘により撃滅するという内容。


1944(昭和19)年10月、大本営が『上陸防御教令(案)』を示した。
※主陣地を後退配備して、敵上陸部隊を内陸の縦深陣地で撃破する戦術をとるように手引き。


1944(昭和19)年10月8日、勇払平野の汀線付近平地部に陣地築城中の第77師団へ、第5方面軍より後退配備をとるよう指導があり、第77師団は次のように防御方針を変更した。
 師団は、来攻する敵をまず水際において破砕したのち、勇払平野北側高地台端付近の主陣地とその後方山地に帯状に設けた陣地とにより極力敵の北進を阻止し、この間彼我戦線を交錯状態に導き、もって優勢なる敵の砲爆撃実施を困難に陥れ、戦闘の主導権を獲得して、その侵攻企図を破砕する。
※最終的には突破されることが予想されたため、定山渓・恵庭岳・樽前山にわたる地域を複郭陣地と予定し、遊撃戦による徹底抗戦をも検討。
※その後、汀線のトーチカ構築は継続。苫小牧北側から早来、鵡川の台地にかけて一個師団分の地下坑道式陣地を築き、内陸防御の拠点とした。


1945(昭和20)年3月16日、大本営が『国土築城実施要綱』を示した。
※敵上陸部隊を水際陣地で拘束し時間を稼ぎ、その間に後方で待機している機動打撃部隊を送り込み、決戦を挑むことを前提に、築城を手引き。


1945(昭和20)年4月、この頃の敵情判断として、米軍が北海道本島へ侵攻するパターンを次のように想定。
〔1〕 陸上航空基地を獲得しようと、道東の計根別付近を目標に、3~4個師団を投入してくるものと予測。上陸正面は主として標津、状況により釧路と判断。
〔2〕 北海道の死命を制する札幌を占領しようと、勇払平野を上陸地点に選定し、5~8個師団を投入してくるものと予測。
〔3〕 津軽海峡の突破並びに米軍艦艇の泊地確保を目的として、内浦湾岸の森付近を上陸地点に選定し、1~2個師団を投入して津軽要塞を背後から攻略してくるものと予測。併せて若干の部隊を長万部付近に上陸させ、札幌及び小樽方向から来る日本軍の増援を阻止してくるものと予測。
〔4〕 宗谷海峡の突破を目的として、宗谷岬東方の猿払付近及び樺太南端の西能登呂岬付近を上陸地点に選定し、2~3個師団を投入してくるものと予測。


1945(昭和20)年5月7日、独立混成第101旅団〔標茶〕を苫小牧方面(勇払平野)に転用発令。


1945(昭和20)年5月14日、米軍の進攻を南九州及び関東と推測し、第77師団の南九州転用発令。
※この頃米軍は、11月1日に南九州へ上陸・進攻する「Operation Olympic (オリンピック作戦)」と、翌年3月1日に関東地方へ上陸・進攻する「Operation Coronet (コロネット作戦)」からなる「Operation Downfall (ダウンフォール〔滅亡〕作戦)」を予定していたので、日本軍の推測は正しかった。
※第77師団は鹿児島県加治木で終戦を迎えた。


1945(昭和20)年6月30日、第5方面軍が『防御作戦準備要綱』を完成。・・・北海道本島での上陸軍に対する決戦の地を、東部では計根別平地、西部では苫小牧平地(勇払平野)と想定。
〔1〕 計根別平地方面では、第7師団が主力をもって計根別西北方地区及び釧路地区を確保、一部をもって標津付近の汀線陣地を保持することとした。
〔2〕 苫小牧方面では、独立混成第101旅団及び軍管区教育隊の主力をもって苫小牧北側高地より早来にわたる間を確保、一部をもって苫小牧付近汀線陣地を保持することとした。
〔3〕 それぞれの方面に敵の上陸があった場合は、約4週間で他の部隊が集中し、決戦を挑むこととした。


1945(昭和20)年7月14日~15日、北海道空襲。


1945(昭和20)年8月15日、玉音放送。


1945(昭和20)年9月2日、日本が降伏文書に調印し終戦。

回想 Reminiscences

【1944(昭和19)年に築城に携わった山砲兵第77連隊の連隊長(大佐)一柳 恒市さん】
 砲兵(山砲)の運用は戦車の破壊に重点がおかれた。このため、連隊は遠戦火力の集中によることなく狙撃的に使用する方針を採った。また、火砲掩体の砲門を敵方斜面に設けることを極力戒め、かつ敵戦車により填塞(てんそく)されることを防ぐため、砲門口をやや高くし、火砲が掩砲所またはトーチカの奥底に自在に退避できるようにした。その強度も20cm砲弾の直撃に耐えうるように施設した。一方、敵火の分散を図るため、擬観測所、擬砲座等を山中各所に配置した。このような工事と並行し、連隊は対戦車訓練、実射を現地で実施し、将兵ともに必中の信念をもつに至った。
 ※填塞(てんそく)…埋めてふさぐこと。
 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書 北東方面陸軍作戦<2> -千島・樺太・北海道の防衛-』(1971)のP267より引用