↑ 背墻(はいしょう)上から見た第二砲座
砲座全体にうすく土砂が被っており、28cm榴弾砲の円形砲床は確認できなかった。
↑第二砲座の 胸墻(きょうしょう)・横墻(おうしょう)
胸墻内に見える小さな丸穴は、これまで明治期の「伝声管」だと伝えられてきたが、『垂直基線式測遠機設置要領』(明治31年11月)によると、観測所との連絡用に電話線を通すための土管であった。
その他、この砲座の弾室の凹みに、何か違和感が・・・。よく観察すると、弾室が二つ分不自然に塞がれていることがわかる。戦後、この砲座の真上に国鉄無線通信所が建てられた際の改造なのだろうか?
↑ 第二砲座
右側に見える通路の先に、第一砲座や右翼観測所がある。
↑↓ 第二砲座
砲の真後ろを避けて、背墻にも弾室が設けられている。背墻の上には見張壕が残っている。(上の写真の右から1本目と2本目の樹木の間に写っている)
↑ 第二砲座の左側
砲座のすぐ左側には、地下砲側庫へ下りる階段があったはすであるが、進駐軍に爆破され、現在は土で覆われているため、全く様子がわからない。
↑↓ 第二砲座と第三砲座の間にある背墻(はいしょう)に残る弾室
ここを含め、千畳敷砲台では、弾室の蓋のための金具が多数残存している。
↑↓ 荒れた状態の第三砲座
終戦時に28cm榴弾砲2門が残置されていたためなのか、左手の地下砲側庫の爆破が特に激しかったようで、砲座内に破片が飛び散っており、樹木も生い茂っている。
↑ 終戦時、第三砲座に2門残っていた28cm榴弾砲
1945(昭和20)年10月14日に、米軍が撮影したもの。この時点ですでに、砲身がガス切断されていたことがわかる。また、砲座の左側に、地下砲側庫へ下りていくための階段があったことが確認できる。
Coast defense guns. Report No. 106l, USSBS Index Section 2, (文書名:Records of the U.S. Strategic Bombing Survey ; Entry 41, Pacific Survey Reports and Supporting Records 1928-1947 = 米国戦略爆撃調査団文書 ; 太平洋地域調査報告書及び作成用資料) (シリーズ名: Evaluation of Photographic Intelligence in the Japanese Homeland, Part IX, Artillery).
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/8822446/1/56
◇情報提供:「青森空襲を記録する会」の中村和彦様
情報提供ありがとうございました。
↑ 荒れた状態の第三砲座
第三砲座を調査する場合は、草木が繁茂していない春先でないと難しい。
↑ 第三砲座左手(南側)の下り坂
この先にある5連の棲息掩蔽部が、徹底的に爆破されており、付近の擁壁も傾いていて危険なため、研究者以外の探索はおすすめしない。