↑ 函館山の砲台
陸軍築城部本部 編『現代本邦築城史』第二部 第八巻 津軽要塞築城史,1943.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223517/1/42
↑ 函館山の要塞施設
↑ 津軽海峡の砲台
陸軍築城部本部 編『現代本邦築城史』第二部 第八巻 津軽要塞築城史,1943.
国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11223517/1/42
↑ 津軽海峡への侵入を防ぐ要塞施設
→は日露戦争時の火砲、→は太平洋戦争時の火砲、→はその他の時期の火砲を示す。(矢印の長さは射程)
↑ 1945(昭和20)年8月頃における、砲台・陣地・部隊等の配置
■終戦直前の防衛体制
明治以来、要塞地帯法及び軍機保護法により、軍事機密である守備状況を敵国に漏らさぬようにしてきたことから、函館要塞~津軽要塞は、長きにわたって戦闘抑止力を維持してきた。日露戦争時には、ウラジオストク艦隊が函館港に接近することを防ぎ、その後津軽要塞に改編されてからは、敵艦の津軽海峡通過を防いできた。
しかし、日本が制空権を失うと、この戦闘抑止力は機能しなくなる。津軽要塞に限らず、日本各地の要塞は、友軍機との連携を前提としていたため、友軍機の支援を受けずに単独で防空体制をとれる備えをしてこなかった。高射砲やそれを運用する部隊が全く足りていなかったのである。
それでも、米軍機による本土空襲が激しさを増す中、B-29の航続距離の限界から、津軽要塞地帯には長く攻撃がなかった。このため、津軽要塞に守られた青函航路は奇跡的に維持され続け、唯一の自給可能な資源であった石炭を、北海道の炭鉱から本州の工場へと運び続けることができていた。
しかし、ついに1945(昭和20)年6月下旬に、津軽海峡上空をB-29が偵察飛行し、7月14日~15日には米空母の艦載機が青函航路を攻撃してきた。このとき、本来迎撃に向かうべき、自国の航空隊は、本土決戦に向けて温存されていたために出撃せず、わずかに、駆逐艦橘と、津軽要塞配下の独立高射砲第31大隊が応戦した程度で、結果、青函連絡船は全滅した。
青函航路が途絶えた後も、要塞は本土決戦に備えていた。当時、津軽海峡は要塞重砲で封鎖していたため、ここを米艦隊が通過することは自殺行為に等しかった。もし仮に、米艦隊が津軽海峡の通過を真剣に考えた場合、津軽要塞を攻略し沈黙させる必要があった。そのため、津軽要塞を背後から攻略することをめざして米軍が内浦湾に上陸するものと予想された。
この想定に基づき、内浦湾口に小橋内砲台、沼尻陣地を築城した。また、森方向からの侵攻に備えて大沼峠付近に、江差方向からの侵攻に備えて大野西側の隘路に陣地を築城した。その他、青森側でも、海軍大湊連合特別陸戦隊や、第11方面軍の部隊が守備を固めていた。そして、この状態で終戦を迎え、津軽要塞は武装解除された。